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「プログラムは消耗品ではない」『そこに音楽がある限り』より

町田樹

『そこに音楽がある限り――フィギュアスケーター・町田樹の軌跡――」

まだ、すべてを読み終えてはいません。序盤も序盤。
でも、むしろ、大事にゆっくり読みたい。

美しい写真の数々を堪能。

ほんと、すべての滑り、所作に心を砕いている町田くん。
どの一瞬を切り取った写真もすべて絵になる。
止まっている絵ではなく、一連の動きを内包した絵。

そして、飛んでいる。”跳んでいる” 以上に、 ”飛んでいる”

「翼が見える」という言われ方がありますが、町田くんの場合は、そうではなく、人間としての その腕で、その足で、飛ぶ力を身につけたという感じがします。

ぶわさぁっ・・・と動く毛髪(分かりますよね。笑)までが、鍛錬の結果のような。

そういう町田樹の身体能力の素晴らしさが存分に堪能できる写真ばかりで、見ている途中で、思わず写真の元となった演技の動画を見てしまう。

『そこに音楽がある限り――フィギュアスケーター・町田樹の軌跡――」の発行から、ぜ~ったい、youtubeでの町田くんの演技の再生回数増えているはず!

毛先までが音楽を奏でるⅠ ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲より
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毛先までが音楽を奏でるⅡ ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲より

※動画よりお借りしました。ありがとうございます。

プログラムは消耗品ではない 

「PARTⅠ競技者・表現者 町田樹の軌跡」の「競技者・町田樹の軌跡」を読み終えて、心に響いた ことば です。

元来フィギュアスケーターにおける「プログラム」とは、どのようなレベルのスケーターであっても「オーダーメイド」によって制作される訳で

(中略)

フィギュアスケートを愛好するファンは、ある一人のスケーターの技術と共に、彼 / 彼女の身体がそのプログラムと共に醸す個性を〈相貌〉として堪能し、そして披露されるその唯一無二のプログラムを時に「何度でも」味わうことを求める。だからこそフィギュアスケートにおけるプログラムとは「消耗品ではない」のではないか

引用:『そこに音楽がある限り』p.14  ※赤字太字は引用者

2011年第7回アジア冬季大会で、シングル日本人選手として、唯一メダルを獲れず(町田くん4位。無良くん銀。村上佳菜子ちゃん金。今井遥ちゃん銀。)落ち込んでシーズンを終えた町田くん。

第7回アジア冬季競技大会 (2011/アスタナ・アルマティ) – JOC

しかし、Don’t Stop Me Now   という素晴らしいプログラムを手に入れていた町田くんに春、Atelier t.e.r.mメンバーがかけた言葉が、上記の

「プログラムは消耗品ではない」 

そして、この言葉が、町田くんに《黒い瞳》の続行から始まる、《火の鳥》《エデンの東》《ヴァイオリンと管弦楽のための幻想》《交響曲第九番》という名プログラムを生み出す支柱となったというのだから、Atelier t.e.r.mメンバーの方々には、感謝しかありません。

そうなんですよ!!

このことこそが、フィギュアスケートが単なる競技ではなく、芸術として語ることのできる独自性。

点数やメダルの色、メダルの有無 を超えて、語り継がれる演技がある!!

その独自性こそが、そういう点数etc…といった、「競技」面での評価にもやもやして、何度ももう見るのをやめようかと思いつつも、私がやっぱり見続けることをやめることが出来ない 理由です。

フィギュアスケートというアーティスティックスポーツにおいて、プログラムの存在は独特な意味を持つ。

引用:『そこに音楽がある限り』p.26

との言葉の後に、列挙されたフィギュアスケートのプログラムの独自性。

1.オーダーメイド

2.各プログラムそれぞれが異なる曲と振付で構成されている。

3.2シーズンを超えて同じプログラムが演技されることは稀。

4.プログラムが他者に継承されることはない。

5.プログラム名が、多くの場合振付家ではなく、選手の名と共に記憶される。

例として、トーヴィル&ディーン組の《ボレロ》、エフゲニー・プルシェンコの《ニジンスキーに捧ぐ》、荒川静香の《トゥーランドット》

とあります。

〇〇(スケーター名)の《〇〇(プログラム名)》

ーーこれ、とてもよく分かるのですが、同時に私が今まで好きになった選手って、こういう風に名前が先にくる感じではなく、

《〇〇(プログラム名)》の 〇〇(スケーター名

なのだなと。

分かりますかね~。

《ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲》の町田樹
《ラヴェンダーの咲く庭で》の宇野昌磨

《ドン・キホーテ ガラ2017:バジルの輝き》の町田樹
《ドン・キホーテ》の本田武史

というように、あくまでもプログラムこそが主で、スケーターはプログラムの依り代。そのプログラムを十全に受け入れ、輝かせる器となるスケーターが好きなのです。

つまり、木村拓哉ではなく、山田孝之。米倉涼子ではなく、綾瀬はるか。……って、なお、分んねー。(笑)

つまり、(←まだ言う?)何を演っても、木村拓哉というスターではなく(いや、スターには違いないんだけど)、演じている役の名前で呼ばれる山田孝之なかんじのスケーターが好きなのですよ。

「プログラムは消耗品ではない」(何度でも書きますよ。笑)

だから、「点数を採るため」「勝つため」の手段 としてしかプログラムを考えないスケーターがいたら、そのスケーターはフィギュアスケーターではないと思っています。

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その腕で、その足で空を飛ぶ。出典:『そこに音楽がある限り』p.79

今シーズンも、将来語り継がれ、見続けられるような演技、プログラムに、 観客が、そしてなにより選手の皆さんが、出会えますように。

(注)ここからの 紫字 の部分は、一度記事を公開した後の追記です。

この記事を書いたのは、「競技者・町田樹の軌跡」までしか読んでいない段階だったのですが、「表現者・町田樹の軌跡」まで読み進めたら、

舞踏家・町田樹はしばしば、自分を「依り代としての身体」あるいは「供犠の身体」と意識し、その器の中に魂を抱いて昇華させていったように見える。

引用:『そこに音楽がある限り』p.30 ※太字は引用者

 とありました。

よかった。好きなスケーターさんたちへの私の思いは、そう的外れなものではなかったようです。