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24時間「お母さん」にライブ配信は、意外とハードルが高い

フィギュアスケート

文章のみ。しかも、長文。そして、かなり意味不明。
ということで、心に大いなる余裕がある方だけ、おつきあいくだされば。(^-^;

新型コロナの流行で、所謂3密が避けられる事態になり、
不要不急の外出の禁止、そして、大規模イベントが軒並み中止となっている。
国をあげての一大事業、いや、日本という一国だけの問題ではない
オリンピック・パラリンピックさえ延期を余儀なくされたのだ。
要ではなく急ではない「その他」の開催が擁護されるわけもない。

音楽、舞台、公演、各種娯楽、スポーツ。
ただ、新型コロナの収束まで、本来行われていた筈のすべての
催事を無期限延期、中止しては、それを生業とする人たちの糧はままならない。
それらは、静かに保護しておけば保存できるものではなく、
絶えず動き続け、磨き続けることでしか保たれないものも多数である。
そして、それらを作り上げているのが
「人」=アーティスト、クリエイター、アスリートetc.。
だからこそ、人を活かし、生かし続けることが
(不要不急と今は言われる)文化全般を守る事である。
一度消えてしまった火を再度ゼロから熾すことの困難さは容易に想像がつく。
小さな火種であっても、絶やさないということこそ大切だ。

ここで、苦肉の策としてライブ配信での提供がある。
場所や箱の制約を受けない分、抑えた価格での提供が可能である。
リアル入場料ほどの収益があがっているのかは分からないが、
座して新型コロナの収束を待つよりは良いとの判断だろう。

アーティスト、スポーツ選手など、
提供者側にとっては、動き、磨き続ける意味を見出すことができるし、
供給者側にとっても、長い渇望をある程度は満たすことが出来る。

地方在住の身として、これは願ったりかなったり、
今まで参加することをあきらめるしかなかった体験を、
今までよりも格段にリーズナブルに体験できる。
地方在住者は、交通費(多くの場合宿泊費も)といった、付属の費用が必須だからだ。

しかし、一見ハードルの低そうなライブ配信への参加が、
わたし個人にはかなり高い壁を感じさせる。

「現場に行かない」
これが、いわゆる「お母さん」にとって、参加を難しくする一番の要因なのだ。
(専業主婦、勤め人に関わらず)「お母さん」は、家にいる限り、24時間「お母さん」なのである。

まず、我が家の場合だが、私の使う机は基本、居間にあるダイニングテーブルである。
そこで、家計簿もつけるし、学校や塾の手紙にも目を通すし、読書もするし、ブログも書く。

居間なので、そのすぐ傍らで、アニメや歌番組やバラエティが流れ続けるTVを見ている家族がいる。
あるいは、歌ったり、踊ったり、ゲームや口げんかや宿題なんかをしている子供がいる。

「お母さん」がそこに在るということは、いつでも、家族の誰かが何かを求めれば、
すぐさま自身の作業を中断し、その要求に応える準備が出来ているということなのである。

では、お父さんは、どうなのか?
条件は「お母さん」と同じはずではないのか。
それが、やはり違うのである。
まあ、家庭によっては同じ、
もしくは「お父さんだけど(精神的には)お母さん」な場合もあるだろうが、
我が家では、お父さんに対しては、お母さんに対して持つような
細々した要求を果たしてもらおうとする欲求は皆、持ち合わせていない。

お父さんが、なにかお父さんの好きなことをしている
――たとえば、『半沢直樹』を集中見しているなんて時に、
消しゴムがないだの、髪が伸びたなど、この単語の意味はなんだなど、回覧板きてただの、
明日は暑いのか寒いのか晴れるのか雨なのかなど、
訊かれたり、言われたり、しないのだ。

9月6日の日本経済新聞12面「コロナ禍を生きる小さな映画館」と題された文化時評では、
大岩佐和子氏が、動画配信サービスでは生まれ得ないタイプの映画があることを書いていた。

扉が静かに閉められ、携帯電話もオフにして外の世界から隔離される。
スクリーンに映し出される映像の光しか見えない。
(中略)
逃げられないほどの暗闇の強制力があるから、SNS(交流サイト)とは
比べものにならないほど作り手と深くつながり、無二の記憶となって刻まれる。

日経新聞20200906 12面 文化時評

「暗闇に2時間、閉じ込められる軟禁状態」のミニシアターだからこそ、成立する作品世界。

これは、ミニシアターだけの話ではないだろう。
より大きな映画館であっても、競技場であっても、球場であっても。

逃げられないほどの暗闇の強制力。

フィギュアスケートでは、アイスリンクを作る空気の冷たさか。

居間からの日常からの強制的なエスケープ。
物理的な距離、「そこにいない」ということが、
「お母さん」という存在からの強制的な離脱を果たす装置となり、
その結果、「お母さん」でなくなった「わたし」は、真に没頭する体験を得、濃密な記憶を得る。

ライブ配信にどうも乗り気になれない自分の心を分析してみました。
ぐだぐだ。
そして、ただの集中力ないことのいいわけじゃね?笑